シンプルウオッチの頂点へ
叡智Ⅱ

奥山栄一:写真
広田雅将(『クロノス日本版』編集長):取材・文
[クロノス日本版 2023年3月号掲載記事]
マイクロアーティスト工房が
結集させた技術の粋
シンプルウオッチの頂点へ
シンプルウオッチのマスターピースとして
名前を轟かせる「叡智Ⅱ」。
その精緻なムーブメントは、本誌でも再三
にわたって賞賛してきた通りだ。
しかし、本作が非凡な存在感を放つ理由
は何も中身に限らない。
試行錯誤のうえ生み出された瑠璃青のセ
ラミック文字盤や、
ムーブメントを見せるための
ケースなどは、叡智Ⅱを傑作たらしめる
大きな要素なのである。
叡智Ⅱ: 初出2014年。初代「叡智」の個性である優れたムーブメントやセラミックス製の文字盤を引き継ぎつつ、一層リファインされた。また18年からはケース製造に冷間鍛造が追加され、よりケースの面が整うようになった。中央はセイコー創業140周年を記念して21年に追加された瑠璃青文字盤モデル。手巻きスプリングドライブ(Cal.7R14)。41石。パワーリザーブ約60時間。直径39mm、厚さ10.3mm。日常生活用防水。
今や多くの時計愛好家に渇望されるクレドールの「叡智Ⅱ」。理由は精緻に仕上げられたムーブメントに限らない。独特の質感を放つケースや、とろみのあるセラミックス製の文字盤は、本作を、ほかの高級時計とは異なるものとしてきた。
そんな叡智Ⅱに2021年に加わったのが、瑠璃青文字盤モデルだ。瑠璃こと「ラピスラズリ」は、古代から宝石として珍重されてきた素材である。セイコーはこの色をセラミックス製の文字盤で再現し、叡智Ⅱに採用した。文字盤を内製するセイコーエプソン(株)塩尻事業所のマイクロアーティスト工房(MA工房)ならではの試みである。

文字盤に結実させた。瑠璃青文字盤の開発には2年かかった、とのこと。
ここまでの経緯を振り返りたい。08年に発表された「叡智」は、ノリタケ製のセラミック文字盤を採用していた。だが叡智Ⅱを開発するにあたり、できる限りの工程を内製化するため、MA工房で装飾を担当する小口哲夫氏は、セラミック文字盤を作るノウハウを自得した。彼はノリタケの絵付け教室に通い、絵付けの手法を得た。文字盤の土台となるセラミックスのプレートは、外装設計者の小澤範明氏がMA工房のある長野県で探し出した。試行錯誤の末に完成したのが、いっそう精緻なセラミック文字盤を持つ「叡智Ⅱ」だった。
表面にガラス質の釉薬を載せる点では、エナメル文字盤とセラミック文字盤は同じだ。違うのは土台のみ。金属ベースのものはエナメル文字盤で、セラミックベースだとセラミック文字盤になる。金属ベースのエナメル文字盤は加熱すると変形するが、ムーブメントに固定しやすく、セラミック文字盤に比べて割れにくい。対してセラミック文字盤は加熱しても変形しないため、より高温の焼成に耐え得る。ただし、ムーブメントへの固定は難しい上、ショックにも弱い。小澤氏は強度が高い工業的なセラミックスを製造するサプライヤーを探すことで、叡智Ⅱのセラミック文字盤に、十分な耐久性をもたらした。

より高温の焼成に向くセラミック文字盤。21年に追加された瑠璃青文字盤は、その個性を最大限に生かした試み、と言えるだろう。ガラス質の釉薬(グレーズ)を施して焼成するのは今までに同じ。しかし、製法は大きく異なる。
セラミックスに色を載せる手法はふたつある。
ひとつは、釉薬の上に顔料(色素)を重ねるオングレーズ。もうひとつは、焼成して釉薬の中に顔料(色素)を溶け込ませるイングレーズだ。叡智の文字盤のインデックスやロゴが採用するのは前者。しかし、叡智Ⅱの文字盤を手掛ける小口氏は「色素が釉薬に溶け込むイングレーズをやってみたかった」と語る。イングレーズで使える絵の具は、黒か紺系。小口氏は絵の具を探し出し、イングレーズ技法によるセラミック文字盤の製作に取り組んだ。完成したのが、ラピスラズリを思わせる瑠璃青色の文字盤だった。


14年以降、叡智Ⅱの白文字盤は、セラミックスの土台に釉薬が載せられた状態で納品されている。MA工房はその素材を焼成して釉薬を溶かし、そこに手作業でインデックスなどを描いて完成品としている。対して瑠璃青文字盤では釉薬を載せる工程からMA工房で行っている。理由は「サプライヤーでは対応できないため」。狙った色を表現するため、MA工房自らひと手間もふた手間もかけているのだ。
青い釉薬を得るには、コバルトやマンガンを加えるのが定石だ。しかし、混ぜる素材が増え、色が濃くなると色ムラが出やすくなる。小口氏は、青系と黒系の色素を使って瑠璃青文字盤を試作したが、やはり黒い色素の塊が残ってしまった。どうすれば塊が残らず、色ムラを解消できるのか。彼は、色素と釉薬を混ぜて乳鉢で潰した後、釉薬をメッシュで漉すようになった。ふるいにかけて細かいパウダーだけを残せば、色素の塊は残らないし、色ムラも抑えられる、というわけだ。
瑠璃青文字盤で使われる色素は2種類。小口氏は試作を繰り返し、最終的にはムーブメントに使われる青焼きネジと同じ色にそろえた。
焼成にもコツがある。イングレーズ技法で使う焼成温度はなんと約1200℃。インデックスやロゴを描くオングレーズの焼成温度である約800℃に比べるとずっと高い。当初はもっと低い温度で焼成を行ったが、約30回の試作を経て、現在の条件に落ち着いた。約1200℃という焼成温度は、普通のエナメル文字盤と比べてはるかに高いものだ。小口氏がイングレーズ技法を採用できた理由は、高温でも歪まないセラミック文字盤だからこそ、だった。

14年以降、叡智Ⅱの白文字盤は、セラミックスの土台に釉薬が載せられた状態で納品されている。MA工房はその素材を焼成して釉薬を溶かし、そこに手作業でインデックスなどを描いて完成品としている。対して瑠璃青文字盤では釉薬を載せる工程からMA工房で行っている。理由は「サプライヤーでは対応できないため」。
狙った色を表現するため、MA工房自らひと手間もふた手間もかけているのだ。
青い釉薬を得るには、コバルトやマンガンを加えるのが定石だ。しかし、混ぜる素材が増え、色が濃くなると色ムラが出やすくなる。小口氏は、青系と黒系の色素を使って瑠璃青文字盤を試作したが、やはり黒い色素の塊が残ってしまった。どうすれば塊が残らず、色ムラを解消できるのか。彼は、色素と釉薬を混ぜて乳鉢で潰した後、釉薬をメッシュで漉すようになった。ふるいにかけて細かいパウダーだけを残せば、色素の塊は残らないし、色ムラも抑えられる、というわけだ。

瑠璃青文字盤で使われる色素は2種類。小口氏は試作を繰り返し、最終的にはムーブメントに使われる青焼きネジと同じ色にそろえた。
焼成にもコツがある。イングレーズ技法で使う焼成温度はなんと約1200℃。インデックスやロゴを描くオングレーズの焼成温度である約800℃に比べるとずっと高い。当初はもっと低い温度で焼成を行ったが、約30回の試作を経て、現在の条件に落ち着いた。約1200℃という焼成温度は、普通のエナメル文字盤と比べてはるかに高いものだ。小口氏がイングレーズ技法を採用できた理由は、高温でも歪まないセラミック文字盤だからこそ、だった。

またこの上絵付け用絵の具も、小口氏が調合したものだ。顕微鏡を使って精密に絵付けされている。
また、ガラス質の釉薬を載せて焼くセラミック文字盤は、よく見ると中心部が膨らみ、外周に向けてなだらかに落ちている。溶けたガラス質の釉薬の表面張力で、真ん中が膨らむためだ。これは白文字盤も同じだが、瑠璃青文字盤の方は、その「揺らぎ」を明確に感じさせる。加えて下地の白がわずかに透ける外周部は、文字盤に微妙な濃淡をもたらした。もちろんこれも意図したもの。「瑠璃青文字盤では、外周が目立つようにしました。しかし、焼成条件次第で、釉薬が偏り、外周の丸みが変わってしまう。こういった要素も踏まえて、焼成時間と温度を決めていきました」。
文字盤製造の工程から。




盛り上がった釉薬が独特の質感を見せる叡智Ⅱの文字盤。他社にはないニュアンスを持っている理由は、やはりセラミックスならではだ。先述したとおり、仮にエナメル文字盤を約1200℃で焼成すると、高温で歪んでしまう。これを修正するために冷却時に叩くと文字盤はフラットになるが、釉薬の盛り上がりは損なわれてしまう。しかし、絶対に変形しないセラミックスでは、文字盤を修正する必要がない。だからこそ、叡智Ⅱは釉薬を表面張力のように盛り上げることに成功したのだ。
約1200℃で釉薬をセラミックスに定着させると、次は磨きの工程だ。表面張力で盛り上がったガラス質の釉薬を、丁寧に磨くことで、叡智の特徴であるとろみのある文字盤が完成する。ところが叡智の文字盤を見ると、工業的なエナメル文字盤に見られる研磨跡が全く見られない。これに対して小口氏は「今までの白文字盤の磨き手法を瑠璃青文字盤に使うと、研磨時に付いた傷が目立ってしまった」と語る。
- 焼成前の文字盤
- 焼成後の文字盤
表面張力で盛り上がった釉薬は、決して変形しないセラミックス製の土台があればこそ。また焼成時に釉薬の中に顔料を混ぜるイングレーズ技法により、エナメル文字盤とは異なる独特の深みを得た。焼成時に釉薬に働く表面張力により、釉薬の厚みは周囲が薄くなり独特の濃淡を醸す。ちなみに現在多くのメーカーがエナメル文字盤の製造に取り組むが、釉薬を載せたセラミック文字盤を製作するのは、MA工房を擁するセイコーエプソンを含めて数社のみである。

では、ガラス質の釉薬をより磨ける素材はないのか。メガネレンズの研磨工程にヒントを得た彼は、ある会社を紹介してもらい、今までとは異なる研磨材を手に入れた。文字盤を拡大して見ても、研磨跡は全く見られない。もっとも、どれだけ丁寧に釉薬を潰し、ふるいで粒子を細かくしても、釉薬には気泡が入ってしまう。そのため、何度も焼成を繰り返して気泡を潰した後、磨きをかけている。今までの白文字盤も手が掛かっているが、瑠璃青文字盤の製法は、一層凝っている。
叡智Ⅱのユニークさは文字盤に限らない。裏蓋側から見たムーブメントは、あたかもケースから浮かんでいるようだ。そのため、受けの外周に施された深い面取りが強調されている。理由は、ユニークなムーブメントの固定方法にある。
普通はケースに中枠(スペーサー)を収め、そこにムーブメントを固定する。対して叡智Ⅱでは、ケースの内側に耳を立て、そこにムーブメントを固定しているのだ。理由のひとつは小さなケースに大きなムーブメントを組み込むため。

結果、ケースの軽量化と着け心地のよさにもつながった。もうひとつは裏蓋の縁を細くして見切りを大きくすることで、裏蓋のガラスからムーブメント外周の面取りを欠けることなく見せるためである。ケーシングに工夫を凝らすメーカーは少なくないが、ムーブメント全体をよりしっかりと見せることを狙っての試みは稀だ。
叡智Ⅱがセラミック文字盤を採用できた大きな理由に、この優れたケースがある。そもそもセラミックスの文字盤は、裏側に脚を立てられないため、ケースで挟み込んで支えるしかない。しかし、文字盤自体に金属素材のような柔軟性がないため、ショックを受けると割れてしまう。
対して叡智Ⅱでは、セラミック文字盤を純鉄製の文字盤枠に固定し、ベゼルの下に格納している。その際、文字盤とケースのクリアランスを0.1mm開けることで、ショックを受けても文字盤がベゼルに当たらないようにしている。事実、過去にMA工房で受け付けた叡智と叡智Ⅱの修理依頼に、文字盤の破損は一例もない、とのこと。

しかし、釉薬を重ねるセラミック文字盤は、微妙に厚さが異なる。そのため、同じように組んでも、0.1mmのクリアランスが得られるとは限らない。そこで叡智Ⅱでは、ムーブメントをケースに固定する機械止め爪という部品を0.05mm単位の厚さ違いで3種類用意した。文字盤が厚いとベゼルとのクリアランスは狭くなるが、そこに薄い機械止め爪を使うことで、0.1mmのクリアランスを得られるわけだ。
文字盤の厚みに応じて機械止め爪を替えるアイデアは、今まで聞いたことがない。しかし、これほどまでに手を掛ければこそ、本作は世界中の愛好家に渇望される時計となったのではないか。隅々まで配慮が行き届いた叡智Ⅱを評するには、ミケランジェロの言葉がふさわしそうだ。曰く、「些細なことが完璧を生み出すが、完璧は些細なことではない」。



